外国に行けば、国それぞれの匂いというものがあります。
空港に着いた時点で、否応なしにその国の匂いが鼻腔から脳髄めがけて強襲、いつもの身体感覚に突如違和感が挿入され、少し不安になります。よく言われる日常から切り離される、という海外旅行の醍醐味は、そんな空港の匂いから始まります。
アメリカや欧州の国々で最初に襲われる匂いは、乾燥した空気に乗ってやってくるトイレや厨房で使われる消毒液や洗剤の入り混じったようなケミカルドライな香りです。
それほど不快なわけではありませんが、日本のトイレと異なる独特の匂いです。私は以前、空港に着いてあの空気を吸っただけで、米国留学時代の多分苦しかった思い出が鳩尾のあたりで疼いたものです。しかし社会人となって20年近く、試験もなんにもない今、あの匂いは逆に異国に来たワクワク感を増幅してくれます。
一方、シンガポールから久々に日本に帰り、自動車の排ガスの臭いがかすかに混じった冷たい空気を肺に吸い込んだ時は、子供時分のスキー旅行に関する思い出(夜行バスが停車したPAのライトグリーンもしくはオレンジ色の灯り、民宿の石油ストーブの匂い、往年の歌謡曲の響きなど)がまざまざと黄泉がえります。
ことほど左様に匂いというものは人間の精神的安定を揺さぶる目に見えないが強力な力を持つものです。
インドのあの匂いを求めて
さて、欧米、日本ときて、次に取り上げたるは宗教が今も息づくも、政府自治体・大企業には官僚主義やら拝金主義が横行、格差は大きくなる一方で、敬虔なヒンドゥ教徒が多い一般市民はどうかというと、巨大映画産業に翻弄されるか精神的な川辺で祈りと涙に明け暮れているようにしか見えない大国インド。
私が以前仕事をした印象としては、よく言われる「日本人とインド人では時間の流れが異なる」というのは半分嘘で、インドにおける実情は、日本人以上に書類や形式、前例に拘る非効率がまかり通り、偉いさんに媚びへつらう人間も多いということでした。
役人は現実を見ずに理想を追い求めがちで、その割に何をするにしてもチンタラしており、仕事上はイライラさせられることは多いものの、市井の人には素朴な人が多いです。
食べ物は日本の街のインドカレー屋とは比較にならないくらい美味しく(ただし水や氷には注意。以前も書いたが何故かインドのホテルレストランのパスタがやたらとうまい)、寺院などの雰囲気は、欧米・日本にはない、古き神々から放置プレイを食らったような独特の寂れた風情を感じられ、私にとっては仕事ではなく旅行で行きたい国ナンバー9です。
そんなインドに着いて、最初に襲われる匂いといったらなんだと思いますか。
実はカレーやスパイスの匂いではありません。
二つあります。
一つ目は、カビの臭い。
私の行ったことのある街はどこも湿度が高かったせいか、もしくは単にちゃんと掃除&換気していないためか、街のどこに行っても建物の中はカビの臭いがしました。
チェンナイ空港は、飛行機を降りて、イミグレーションに向かう通路からしていきなりカビ臭い。
ショッピングモールやオフィスビルのエレベーターホールでも同様の臭いがします。
しかしあの臭いは、シンガポールの古くて萎びたショッピングモールでも(濃度は低めながらも)確実に漂っているし、ベトナムやインドネシアのビルでも臭ったので、インド特有ではなく、高温多湿の国特有の臭いなのでしょう。ともあれカビ臭との遭遇率はインドが最も高く、あの臭いに囲まれるとインドに来たなー、と実感します。
もう一つの匂いはジャスミンの香りです。もしくはチャンダン(白檀)の香り。
カビや油、埃、排気ガスの臭いに混じって、ジャスミンもしくはチャンダンの香りが街中の至る所で漂っています。ビルの中はチャンダンが多い気がする。
シンガポールのHDB(団地)などの一階によくあるインド人経営の金物屋、商店でするあの匂いは、大抵ジャスミンです。
私は以前はチャンダン香派でしたが、チャンダンはどうもカビの臭いも同時に想起される気がして、最近はもっぱらジャスミン香を愛用しております。
車とバイクが大量に行き交うインドの路上では、小さな子供連れの女性が、危険を犯して信号待ちの車の窓をノックして、ジャスミンの花輪をたくましく売り歩いているのを見かけることがあります。
一度同行していたインド人はそれを買って車のダッシュボードにどさっと濡れた花輪を置いたため、車内に湿ったジャスミンの香りが充満したことがあります。
今度インドに行った時は、大人買いしてホテルの部屋をジャスミンだらけにしてみようと思います。コロナ禍がなければ、昨年はインド最南端を目指して旅行するはずでした。
やや薄黄色がかった白いジャスミンの花輪はとにかくインドのそこら中で見かけます。
道端で果物などと一緒に売られていたり、寺院やホテルのロビーにあるガネーシャ像の首にかけられているのをよく見るし、おまけにジャスミンの香もよく焚かれています。
ジャスミンはセクシーな香り?
ジャスミンの香りには、リラックス効果のほかに、催淫効果があるなどとまことしやかに言われます。
インド人に聞くと、ジャスミンのあの匂いを嗅ぐと実際「Horny」な感じになるそうです(「ツノの」という意味の形容詞「Horny」には、俗語で「エロい気分になる」「やりたい」と言う意味があります)。
しかしそれは、化学的な催淫効果というよりも、学生時代に女学生がみんなジャスミンの芬芬たる香気を巻き散らしていたからだそうで、インド人男性の記憶の中で、ジャスミンの香りは「女」と結びついているようです。
ジャスミンとジャズの関係
そんなジャスミンは、実はジャズ(jazz)の語源になったという説もあります。
Jazzの語源としては、スピリットやエネルギー、もしくは精子・精液の隠語である「jism」から来たとするものや、「スピードを上げる」「興奮状態にさせる」という意味のアフリカ由来の「jaz」という言葉から、などなどたくさんある中、ジャズ発祥の地ニューオリンズの赤線地帯の売春婦がフランス製のジャスミン(Jasmine)の香水をよく纏っていたから、という説もあるそうです。しかしこれらはどれも証拠不十分な模様。*1
たとえジャズの確かな語源ではないとしても、そんな説が出てくるあたり、やはりジャスミンの香りはインド人に聞いた通り、エロスとは切っても切れない関係にあるようです。ジャスミンの香るインドの寺院にはとても艶かしい神様の像があったりもします。
それはともかく、ジャスミンの香りが好きな私は、まずは自分の部屋に常時ジャスミンの香りを漂わせ、ゆくゆくは香水など付けずとも衣服から、さらには毛穴からジャスミンの香りを放出してモテモテになるべく、最近ジャスミンの線香を箱買いしました。
シンガポールで購入したインド製の線香は、20本入りのワンパッケージたったの1ドル(約80円)。
ちなみにインドで買えばもっと安いです。確か一箱20円か30円レベルだったと思います。
日本製のものはだいぶと高いですが、多分もっと上品な、透明感ある花のような良い香りがするのでしょう。上の写真のものはやや荒削りな匂いがします。とはいえインドの匂いそのもの。
シンガポールでも安いので調子に乗って3〜5本くらいいっぺんにもくもく焚いています。おかげで最近外から帰ってドアを開けたらジャスミンの香りがしていい感じです。
ジャスミンティー同様、リラックス効果は確かにあると思われます。
正直なところ、期待していたような、東南アジア歓楽街の飲み屋2階のネオンの灯りに照らされた部屋的な淫靡な感じになるというより、部屋が寺院っぽく、インドっぽくなるだけな気がしています。
しかし、ビジネス上の文句はたくさんあれど、インドは旅行で行きたい国ナンバー8くらいなので、旅行に行けない今、現実逃避の手段としてジャスミン香に溺れるのも悪くありません。
ただ、賃貸マンションであんまり線香焚くのもどうなのか、という気もするので、ジャスミンオイルも今度買ってみたいところです。
さらに、さっき書いたことと矛盾しますが、調子に乗ってジャスミンの香水も購入してみたいと考えています。ちょっと調べたところ、女性ものの香水の方が、ジャスミンを含むものが多い。しかしあまり甘すぎる香りのもの以外は、女性向けの香水を男がつけても問題ないと思っているので、今度探しに行ってみようと思います。
もしジャスミンの香水を日頃愛用しておられる方がいらっしゃれば、教えていただければ幸いです。シャネルのNo.5は流石にちょっとアレなんで。
「ジャスミン 香水」でアマゾン検索すると、1個目に出て来たのがこれでした。めちゃくちゃ安いので化学香料満載かも知れず、そもそも「フェロモン香水」などと銘打たれた商品を買う44歳のおっさんはキモいことこの上なしという自己反省の気持ちをかろうじて維持する私は買いませんが、やはりジャスミンとエロスは結びついているようです。
ジャスミンの香りにぴったりの音楽
そんな自分では買わない商品を紹介するのは本ブログの主旨に反します。
というわけで上のジャスミン=ジャズ繋がりで、幸福な月夜、または不幸な雨夜、そしてvice versa、紳士淑女の皆様が、ホーニーホーニー、ジャスミンの香りに包まれて、恍惚となるのに最適なジャズ・ミュージシャンの曲を最後に紹介いたします。
一つ目は、アメリカのジャズ・ピアニスト、デューク・ピアソンのアルバム『How Insensitive』収録の「Cristo Redentor」です(Spotifyで聞けます)。
「Cristo Redentor(クリスト・ヘデントール)」は、リオデジャネイロのあの両手を広げた巨大なキリスト像の名前。もしくはそのまま罪を贖うキリストという意味。
線香から漂う煙を見つめながらこの曲を聴くと、幸せとは何かがわかった気がします。ぜひお試しください。ややボサノヴァ路線の本アルバムの中でも異彩を放つ名曲です。
私は実際、ジャスミン香を焚きながら、この曲をリピート再生に及び、昨年文庫が出たネルヴァルの『火の娘たち』を読みつつよくわからないのでソファで寝落ち、深夜1時頃、浅い眠りから目覚めかけたる時、オペラハウスのボックス席に向かうフランス貴族の美女の立てるシルクドレスの衣擦れのようなこの曲を朧げに認識、天国にいるような心地がしました。客観的にはパンツ一丁のおっさんが寝転がってよだれを垂らしている地獄のような光景であることは言わずもがなの悲しさで、しかしそれらを全て包み込む、まさにクリストのように包容力のある1曲。
包容力といえば、こちらも一つ。
ハープ、ピアノ奏者、アリス・コルトレーンが身内のために作ったカセット・テープをリマスタリングしたアルバム『The Ecstatic Music of Alice Coltrane Turiyasangitananda』からレコードで言うとSide 3の1曲目「Journey to Satchidananda」。
完全に魅惑の「インクレディブル・インディア」の世界ここにあり。
安っぽいスピリチュアルとは程遠く、拝聴すると神聖な祈りの世界と対面せざるを得ず、ジャスミンがエロいとかアホのように言っているのが恥ずかしくなる一曲。ですが、言わずもがなの儚さで、(多分このアルバムは以前も紹介しましたが)ジャスミンの香りに最高にマッチするものとして再度お勧めしておきます。
なお、ジャスミンはインドネシアの国花ということを先ほど知りました。ということは、ガムラン音楽も間違いなく、ジャスミン香のリラックス効果を底上げしてくれることは想像に難くありません。
ヒンドゥ教の影響が色濃いバリ島には、確かにジャスミンの香りが漂っていたような気がします。
ガムラン音楽は好きですがあまり詳しくありません。去年2月末に最後にジャカルタに行った際、ホテルのロビーで演奏されていたアンビエントな静かなガムラン音楽はめちゃくちゃ良かった。
インドの写真を多めに使いました。上の写真はチェンナイのビーチで撮影。我ながらArt Ensemble of Chicagoのジャケットに使えそうな傑作写真です。
ジャスミンの香りに包まれるより、早く旅行したい!