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シンガポールの失われた時を求めて日本人の足跡を追う:『日本人のシンガポール体験 - 幕末明治から日本占領下・戦後まで』

4月下旬から5月上旬にかけて、またもやシンガポールの市中感染者が増えたため(と言っても一日20〜30人程度)、5月16日から6月13日までの予定で、行動規制がまたもや厳しくなりました。外食禁止で基本在宅勤務です。

不貞腐れてブログをサボっていましたが、家に引きこもる時間が多いと読書量が増えましたので、最近読んだ本の中から、本ブログにぴったりな一冊を紹介します。

欧州航路を旅した日本人たち

広島大学大学院教授で詩人の西原大輔氏による『日本人のシンガポール体験 - 幕末明治から日本占領下・戦後まで』(2017)という本です。

3,800円(税別)もしますが、旅行も出張もできない現在、シンガポールを過去に訪問、生活した日本人の足跡を辿るこの本は、失われた時を求める21世紀のおっさんにとって、格好のシンガポール観光案内としても楽しむことができ、そう考えると安いものでした。

幕末の1860年代以来約百年間、日本人は欧州航路を旅して来た。西洋文明を日本にもたらしたこの海の道は、一世紀にわたって日本の近代化を支え続けたのである。(中略)欧州航路を往来した日本人の旅行記や、関連する文学・美術について、私たちはそろそろ全体像を解明すべき時期に来ている。(152頁)

幕末から明治・大正・昭和の時代にかけてシンガポールを訪れ、または生活した文豪や歌人、詩人、画家、映画監督などの文化人のエピソードだけでなく、日本によるシンガポール占領下の軍人や教員、売春婦、ビジネスマンなどの足跡を、これでもかと網羅的に紹介した労作となっています(元は日本シンガポール協会の機関誌に発表したエッセイをまとめたものらしい)。最後に索引がついており、多分200人以上の日本人が出てきます。

こんなにたくさんの著名な日本人が、シンガポールを体験し、文章を残していたとは知りませんでした。しかし欧米列強に追い付け追い越せと多くの日本人が船で欧米に渡った時代、シンガポールが欧州航路の補給地(三井物産が三池炭鉱で取れた石炭をタンジョン・パガーの旧港に山積みにしていた)であったことを考えるとある意味当然で、激動の時代に残されたエピソードが面白くないわけがありません。

いくつか紹介しておきます。

高丘親王の物語が大日本帝国の南進論に影響した

平安時代に出家して天竺を目指して旅立つも、マレー半島の南端(シンガポールかジョホール)あたりで虎に襲われて亡くなったという高丘親王(799〜865)の物語が、1,000年以上の時を経て、大日本帝国の南進論に影響を与えた。

実際、谷崎潤一郎までが、東南アジア各国の人々は日本人が帰ってくるのを待っていた同胞などと勝手なことを書いていたが、マレー半島を南下し、シンガポール占領に成功して調子に乗った大日本帝国は、占領時代に華僑の粛清や国家的カツアゲなどの忌むべき大罪を犯しつつ、一方で、日本語などを教える昭南日本学園は入学希望者の行列ができるほどの大盛況、シンガポール独立建国の父、李光耀(リー・クアンユー)氏はその第一期卒業生だった。その学園の創設に奔走した神保光太郎氏のエピソードも、急遽外国で仕事をすることになった大変さが垣間見られて面白い。

小津安二郎の思い出は偲び難し

昭南学園の卒業式が行われたキャセイビル(The Cathay、現在はその一階玄関部分のみが残されおしゃれモールとなっている)は、映画監督の小津安二郎が戦時中に住み込み、戦況の悪化に伴い映画撮影がなくなって暇になり、接収した外国映画を見まくった場所。

ちなみに結構笑える、というか現代でも通じる名作『お茶漬けの味』の中で、笠智衆演じるパチンコ屋の親父がノーズ・ブリッジ・ロードを懐かしく思い出すセリフがあるが、その道路とヴィクトリア・ストリートに挟まれた現在のブギス・ジャンクション(しょうもないショッピングモールとインターコンチネンタル・ホテル)の建つ場所は、日本料理屋や売春宿が軒を連ねた日本人街があった場所。

経済成長に振り切って発展した今日の退屈なシンガポールにおいて、当時の面影は一ミリも残っておらず、ノース・ブリッジ・ロードの道端に佇み、空想的な郷愁に浸ることは極めて難しい。一応焼き鳥屋があるが現代風。せめてラッフルズ・ホテル内のバーに行く程度か。 

お茶漬けの味

最初の在留法人音吉の人生

江戸に向かう船が漂流してアメリカ・ワシントン州に流れ付き、ロンドン行って、マカオに送られ、イギリス商船で日本に帰ろうとしたら薩摩藩から砲撃されて帰国を断念、イギリス側で清国人のふりして通訳・貿易業に従事しつつ、シンガポールを1835年頃に何度か訪問、最終的には妻の故郷シンガポールに移住するという、波瀾万丈な人生を送った近代日本人最初の在留法人、音吉(オットソン)さんは、実は福沢諭吉に会ったことがあったらしい。日本人が港に来ると聞いた時の嬉しさは想像に難くない。

音吉の住居は、オーチャード・ロードに面する「現コンコルド・ホテル前の駐車場およびイスタナ公園の西側の一部を占める広大な屋敷(23頁)」で、現在でも超が3つ付くくらいの一等地であった。その後、賃貸に出して儲けた。歴史に「if」は禁物なれど、妄想が捗るエピソード。

『厄除け詩集』の井伏鱒二が忙しいサラリーマンのよう

『徴用中のこと』(私は未読)によれば、井伏鱒二は、戦時中に徴用されて宣伝班としてシンガポールに9ヶ月住んだ。英語力の不足を感じていたにも関わらず、断れない上官の命令で、現在も発行されている新聞『The Straits Times』を引き継ぐ英字新聞の編集を引き受けた。『The Shonan Times』と名を改めたこの新聞は、今でも図書館(National Library)のサイトで読むことができる。特に終戦前後の記事は興味深く暇潰しになる。

井伏鱒二がその編集責任者時代のエピソード(シンガポール占領時の指揮官、山下奉文将軍にめっさ怒られたり、現地スタッフを後ろに立たせて自分は椅子に座って満更でもない顔をしたり)が、ともすれば日本人サラリーマン的で、『厄除け詩集』の飄々とした雰囲気と印象が随分異なる。暑いからバルコニーに置いたバケツの上にまな板を置いて書いたという連載小説『花の町』は、「昭南島時代の社会風俗を知る手がかりがあり、大変興味深い小説となっている(194頁)」とのこと。今度読む。

金子光晴が相変わらず格好良すぎる

金子光晴・森三千代夫婦の足跡紹介にも結構ページが割かれている。

しかしさすが金子光晴、インド人労働者(苦力=クーリー)の悲哀を「絵を売りながら南洋を放浪中の金子光晴自身の感情(133頁)」に重ね合わせて書き残したり、散文詩『街』においては、もぐりの売春婦の一斉検挙で捕まった300人の女性が警察署に入りきらずに庭の芝生で鼻をかんだり、唾を吐いたり、しゃがみ込んだり、寝転んだり、いつの間にかそんな女たちを見ようと野次馬が集まり、更には野次馬目当てで屋台(ホーカー)も集まり、売春婦も警察官も野次馬も一緒になってサテー(羊肉の串)を食ってたら、大量の蝿が集まって来た光景を見て一言、「街というものの多くは、こんなあんばいにしてできあがつたのだ」と詠う。

「金子光晴にとって南洋は、人間の欲や本性がむき出しになる空間であった(138頁)」。

そんな雰囲気は21世紀の今、タイやマレーシアには(一部はサイバーパンク的世界観にアップデートされて)残る。一方、シンガポールの浄化作戦は、コロナ禍で勢いを増したようにも見え、その行き着く先は・・・知りたくもない。

なお、私が現在住んでいるタンジョン・カトンについても金子光晴は文章を残している。それによると、カトンの海辺の桟橋から水上に張り出した日本料理屋の軒先には提灯がぶら下がり、三味線の音が聞こえて来たとのこと。

当時のカトンの浜辺は、現在では埋め立てられて、チャンギ空港と中心街を結ぶ高速道路(ECP)となっている。その先にあるイーストコーストの人工浜辺では、金持ちが高級犬の散歩をさせたり、健康そうな男女がピチピチタイツでジョギングなどしている。正視に耐えず海に目を背けても、大量のコンテナ船が水平線の線を妨害。

街に行けばおんなじような店が入るおんなじようなショッピングモールとレストランばかり。古い建物の一階を改装したおしゃれレストラン・雑貨屋もごく一部を除き、ハリボテ感が漂うばかり。金子光晴が当時、日本から遠く離れた料理屋で体験した風情はほぼ失われている。つまらん。

昔から変わらないところ

なんて平和を満喫しつつ我儘に文句を垂れていると、詩人野口米次郎による「今日でも通用するような発言(161頁)」が紹介されていた。1935年の発言。

シンガポールは「花と樹々の栄光に包まれ」た「清潔な健康地」で「詩人の楽園」といつてもよい(中略)ところが、「海外からの居住者は兎に角こヽの生活は一時的で、たゞ金をつくるのが目的だとしか考へてゐない」。「新嘉坡人は文化的且つ芸術的向上心が必要である」(同頁)

現在、ラサール芸術大学シンガポールには小洒落たアート学生がたくさんいるし、小さな画廊も街中には結構ある。政府も文化・芸術促進に関する各種施策(補助金など)を出しているのもわかるが、どうも上滑り感を感じてしまう。

単純に、日本と比べると、美術館の特別展やコンサート、ライブの開催が極めて少ない。というかほぼなく、場所代高過ぎ、客の見込み少な過ぎで、多分採算が取れないのだろう。詩人の語った感想は今もたいして変わらない。

また、どこに書いてあったか忘れたが、戦前からシンガポール川の南側、つまりラッフルズ・プレイスなどのCBD(Central Business District)は、大手商社や銀行の駐在員が住まう高級エリアで、彼らが来るよりもっと前からシンガポールに住んでいたフロンティア精神溢れる日本人は、ミドル・ロードあたり(つまり上述の日本人街のあったブギス・エリア)に多くいて、同じ日本人の間でもちょっとした分断があったらしい。これも精神的には今も残る。

* * *

他にもまだまだもっとたくさんの興味深いエピソードが紹介されています。

シンガポールにお住まいの方や、シンガポールには何回か来たことがあって、次に観光するときはちょっと変わった場所を訪れたい、という方には特におすすめできます。

ちょっと高いけど、面白いのでぜひ。巻末には本の中に出てきた場所が地図にプロットされています。今はどこにも行けないんで、それを参考にぼちぼちシンガポール国内観光でもしようと思います。

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